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名古屋仮飛行場沖合から9号地を望む

名古屋仮飛行場沖合から9号地を望む(名古屋市港区潮凪町地先~潮見町・昭和13年)げんぞうアーカイブス所蔵

名古屋仮飛行場

昭和9年10月1日、現在の名古屋港潮凪埠頭(旧10号地)に開設された名古屋仮飛行場
近代的な都市整備を急ぐ名古屋にとって、
当時すでに東京から大阪、福岡を経由して朝鮮半島、満州へと伸びる民間航空路線は、
ぜひとも立寄らせたいもののひとつであった。
名古屋の空の玄関口を整備することは、名古屋港・名古屋駅に続くビッグプロジェクトであり、
国も国防の観点から名古屋空港建設を後押しする。

広大な土地を確保する上で注目されたのが、名古屋港埋立地だった。
当時は陸上機以上に水上機が広く普及しており、埋立地であればその両方の発着が可能と期待を集める。
だが、そこには課題が・・・

国が考える広さの空港用地を確保することは、当時の名古屋港でも不可能だったのである。
そこで開港を急ぐため、すでに埋立工事が終わり、売却目前だった10号地にひとまず空港を建設。
そのうえで10号地南西に、新たに空港用地を埋立工事で造成するという仰天プランを考え出したのだった。

こうして10号地にお目見えした名古屋仮飛行場
その隣接海面には、水上機の発着場も整備された。
写真は名古屋飛行場と三重県の二見浦を結んだ、安藤飛行機研究所のハンザ水上機J-BBOL機から撮影されたもの。
前方に見える陸地は、危険物を取り扱う9号地(現潮見埠頭)。
その手前に停泊するのは、9号地に石油を運んできた油槽船と思われる。

名古屋仮飛行場について詳しくは、6月22日(金)からキャッチネットワークで放送される
『東海の肖像』「名古屋港~日本一の貿易港のあゆみ~」
をご覧ください。

なお、6月23日から2か月間は、ケーブルテレビ連盟Webサイト『じもテレ』でも視聴可能です。
「じもテレ 名古屋港」で検索









熱田築港事務員派出所

熱田築港事務員派出所(名古屋市熱田区神戸町・明治31年頃)げんぞうアーカイブス所蔵

熱田築港事務所

熱田港を整備しようと明治29年に始まった築港工事。
2年後の同31年には築港事務員派出所が移転新築された。
瓦葺きで2階建ての木造建築。
その屋根には風向計と風速計のほかに避雷針が見える。

左手の電柱の陰には人力車
右手には数台の屋台が並ぶ。
一番右手の屋台に注目いただきたい。
屋根上に掲げられた「氷」の垂れ幕。
当時、すでにかき氷は夏の人気商品のひとつ。
これはかき氷の屋台のようで、よく見ると屋台中央にかき氷を作る氷削機らしきものも見える。
無造作に屋台が並んでいることから、ここで準備をして行商に出発したのだろう。

ちなみにこの建物は、人びとに築港事務所と呼ばれ親しまれるが、
浚渫工事が本格化するようになると、「現場まで遠い」と職員からは不評だった。
事務所がようやく5号地に移転するのは明治44年。

一方、明治36年には、大阪税関が間借りして名古屋出張所をここに設置する。

熱田築港事務員派出所について詳しくは、6月22日(金)からキャッチネットワークで放送される
『東海の肖像』「名古屋港~日本一の貿易港のあゆみ~」
をご覧ください。

なお、6月23日から2か月間は、ケーブルテレビ連盟Webサイト『じもテレ』でも視聴可能です。
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熱田港にやってきたろせった丸

熱田港にやってきたろせった丸(名古屋市港区港町・明治39年)げんぞうアーカイブス所蔵

ろせった丸

ろせった丸と聞いて、直感的に名古屋港を思い出す人は、かなり名古屋の歴史に明るい方である。
というのも、七里の渡し(宮の渡し)として知られた熱田湊を、沖合の干拓地に移行させ、大規模な浚渫を行ったのが
現在の名古屋港の始まりである。
当時の浚渫事業には、国からの援助を得られないまま、多額の公費をつぎ込む愛知県に対し、県民からは非難が集中。
その批判をかわし、県民に港への興味を持ってもらおうと、画策されたのが
『ろせった丸』を舞台に、当時開催中だった巡航博覧会を熱田港でも開催することだった。

このとき、東海地方では武豊港と四日市港に立ち寄ったろせった丸。
四日市港まで出向き、船長に熱田寄港を嘆願したのは、若き築港技術者の奥田助七郎
その求めに応じて、急きょ実現したろせった丸の熱田港訪問。
会期中、なんと10万人が押し掛け、それを機に築港事業への反対もなくなったと云われる。

写真は熱田港に入港したろせった丸と巡航博覧会を、一目見ようと集まった人びとが列をなす様子が判る。
奥田助七郎が昭和28年に著した『名古屋築港誌』によると、ろせった丸入港当時、
「桟橋が未完成で土運船5艘を並べて俄か桟橋とした」という記述通り、土運船による船橋も写っている。
こうした事実が写真で確認でされたのは今回が初めて。
ちなみに熱田港は、この翌年名古屋市が熱田町を合併したことで名古屋港と改称される。

このろせった丸について詳しくは、6月22日(金)からキャッチネットワークで放送される
『東海の肖像』「名古屋港~日本一の貿易港のあゆみ~」をご覧ください。
なお、6月23日から2か月間は、ケーブルテレビ連盟Webサイト『じもテレ』でも視聴可能です。
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ツェッペリン伯号現る!

ツェッペリン伯号現る!(東京都中央区銀座四丁目・昭和4年)げんぞうアーカイブス所蔵

ツェッペリン伯号現る!

本来、このコーナーでは懐かしい地元の景色をご紹介しようと始めたものだが、
今回は最近入手した珍しい一枚をご紹介しよう。

これは銀座4丁目に現存する旧服部時計店の屋上から撮影されたものである。

写真中央上空にご注目頂きたい。

飛行船である。
「ツェッペリン伯号」である。

昭和4年8月8日に米国ニュージャージー州レイクハーストを出発。
9月1日北半球を一周して再びレイクハーストに戻る大飛行を成功させた。
その途中、日本にも立ち寄った。
写真はその時の様子を撮影した一枚である。

旧服部時計店の屋上はもちろん、左手前の三越、その奥の松坂屋の屋上は、
飛行船を一目見ようと鈴なりの人である。

このとき、新聞の見出しともなった「君はツェッペリンを見たか」は、当時人びとの合言葉となったといわれる。

当時霞ヶ浦には、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから持ってきた飛行船の格納庫があったため、
それで寄港地に選ばれたという。




逢妻川の舟遊び(刈谷市・昭和10年)

逢妻川の舟遊び(刈谷市・昭和10年)天野信二氏撮影 げんぞうアーカイブス所蔵

逢妻川の舟遊び

今回ご紹介する一枚は、昭和10年に現在の刈谷市域の逢妻川で撮影されたボート遊びの様子である。
和服姿でオールを漕ぐ2人の女性に対し、艇尾に座り優雅に傘を差す女性とのコントラストが何とも滑稽だ。
手前に写真機を構える男性を配置した構図も面白い。
この写真が撮影された背景はというと、当時、刈谷にあった某写真館に出入りする若者たちが写真サークルを作り、こうしてしばしば撮影会を開いていた。
モデルは決まって行きつけのカフェーの女給たちであった。

逢妻川にあったという貸ボート屋だが、側面には「刈谷・森」とある。
いつごろまで営業していたのか、どのあたりにあったのか。詳細はまだ確認できていない。
いずれにしろ今のコンクリート護岸とは隔世の感がする一枚である。



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