オープン間もない東陽館(名古屋市中区千代田一丁目・明治31年頃)げんぞうアーカイブス所蔵
東陽館と聞いて
山田才吉が頭に浮かぶ人は、相当な
名古屋通である。
東陽館とは、正式には
株式会社名古屋東陽館といい、
当時名古屋で、これほどの規模の大きい日本建築はなかったと云われる。
御殿風の檜皮葺造りの二階屋は、数百人のお客を収容できたという。
もちろん、自慢は建物だけに留まらず、広大な敷地には池のある日本庭園が造られ、
その園内にもすし店や茶店、料理店などが点在。
温泉や遊技場のほか、各所に58もの小座敷が散見され、そののべ床面積は、畳
340畳にも上ったと云われる。
この東陽館を造った人物が、愛知県きっての
アイディアマンの
山田才吉である。
山田は、名古屋土産として有名な
「守口漬」の考案者で、
県下で最初に缶詰製造を行った人物として知られる。
実はこの山田は
、大の建築マニアなのである。
東陽館は、明治26年に当時の南鍛冶屋町(現栄三丁目)から千種村(現千種区吹上)に至る、
幅員7.3メートルの
東陽通沿いに建設される。
工事を始めたのは明治29年10月22日。
わずか4か月ほどで開業に漕ぎ着けている。
東陽館には、さまざまな有名人が訪れているが、
初代内閣総理大臣の
伊藤博文も、明治32年6月13日の来名の際、ここを訪れた一人。
だが、明治36年8月13日午後2時30分に東陽館で火災が発生。
「人屋の楽園」と称された東陽館は、わずか1時間ほどで焼け落ち、その歴史の幕を下ろした。
ちなみに、山田はその後、名古屋港近くに
南陽館、現在の東海市に
聚楽園を建設。
歴史にその名を刻んでいる。
完成間近の矢作川改修工事(碧南市鷲塚町7丁目・昭和9年頃)げんぞうアーカイブス所蔵
昭和7年7月1日から2日にかけて発生した豪雨水害の対策として、昭和8年から始まった
河川改修工事。
そのうち、
矢作川と
鹿乗川の
合流地点を延長し、2つの河川の合流がスムーズに行えるようにした工事が、
完成間近を迎えた。
鹿乗川と矢作川を平行に、緩やかに流すことで、合流がスムーズにできるという設計で、改修工事が進められた。
その合流点を示すため、人を立たせて撮影された記録写真の一枚のである。
現在はコンクリート護岸に改められているが、その形はほとんど現状と同じである。
平成12年の
東海豪雨など、矢作川水系ではその後も水害が頻繁に起こっているが、
この改修箇所では、氾濫や堤防の決壊は起きていない。
台風や集中豪雨など、矢作川の水量が増すと、鹿乗川との合流地点で渦を巻いて水が溜まることはしばしば見られた。
だが、2つの河川の並走区間を延長したことで、水を
プールできる量が格段に増え、
これまでこの築堤が越水したことはない。
ただ、鹿乗川の勾配が少ないため、この上流まで水位が高い状態になることが多く、
その後も安城市内では氾濫したこともあった。
今回の
西日本豪雨で注目をされた
「バックウォーター現象」。
こんな身近な河川にも、こうした危険が隠されていることを、忘れてはならない。
こうした歴史を振り返ることも、災害から身を守るためには、重要なことだと考えたい。
進められる矢作川の改修工事(西尾市上町~米津町・昭和9年頃)げんぞうアーカイブス所蔵
昭和7年7月1日から2日にかけ、低気圧が接近し、
梅雨前線を刺激した影響により、愛知県全域で大雨となった。
降り始めからの雨量は、豊田市怒田沢町で428ミリ、西尾市で273ミリ、岡崎市で233ミリを記録。
この大雨の影響で、
矢作川の水量が大幅に増加。
西尾市米津町では、矢作川に合流する
鹿乗川が、流入できなくなり水位が急上昇。
鹿乗川上流部の安城市内では、越水も発生した。
さらに米津橋から上塚橋の間でも、矢作川が
氾濫。
堤防が決壊寸前にまで追い込まれ、
地元住民や近郷近在の水防組織が総出で、土嚢を積むなどして堤防を守った。こうした水害は、矢作川の上流部でも発生。
それをきっかけに、翌8年から
内務省直轄による河川改修工事が始まった。
写真は
米津橋下流の矢作川左岸で行われている改修工事のようす。
左手の川の中に着物姿で立つ男性は、
地元県議の事務所関係者。
内務省直轄事業とはいえ、予算の厳しい時代で、矢作川改修工事も滞りがち。
そこで地元県議が、現地を回ってその進捗や成果を写真に記録。
県議会や国への陳情に使おうとしたものか。
このときの改修工事により、鹿乗川の合流地点は、上塚橋手前まで延長。
そのため、川岸に暮らしていた米津町渡場地区と里地区の住民は、
移転を余儀なくされた。
こうした護岸の改修は、ここ左岸でも行われ、米津町川向地区の住民も移転している。
写真は西尾市上町の矢作川左岸から上流に向かってカメラを向けている。
川の前方に見えるのは
米津橋。
その右手、左岸堤防正面に見えるのが
八ッ面山である。
賑わう広小路(名古屋市錦三丁目・大正末~昭和初期)げんぞうアーカイブス所蔵
名駅南の笹島交差点から栄を経て、東山公園前まで東西に結ぶ
名古屋のメーンストリート。
元々、
清州越しの際に築かれた、城下町の
碁盤割南端の道路であった。
江戸時代の万治3年に起こった
万治の大火を機に、防火帯として大幅に拡幅され、
広小路と呼ばれるようになったと伝えられる。
しかし、当時拡幅されたのは、碁盤割の東半分ほどの本町西まで。
その後、明治19年に笹島に
名古屋駅が建設されることになると、
堀川を越えて現在の笹島交差点までが拡幅された。
そこを日本で2番目となる
路面電車が走るようになったのが、明治31年のこと。
写真は、広小路伊勢町交差点西あたりから、東の栄交差点方面を望む。
ドームのある建物が
日本生命、その奥が
日本銀行、
明治生命と、明治の近代建築が並ぶ。
手前に向かって来るバスの車列が、道路中央の路面電車の軌道に入っているのは、
リヤカーを曳く自転車や荷車を避けてのこと。
荷車の男性は、露天商であろうか。
大きな
飼い犬を連れている。
歩道の縁石を嫌って、車道を走っているのか。
交通マナーは、まだかなり酷かったようである。
徳川家康が命じた碁盤割を基本に、それを拡幅と延長する形で、その後も整備が進められた名古屋。
昭和12年の名古屋駅移転・新築を機に、広小路を上回る当時として画期的な幅員を誇る
桜通を完成させている。
さらに戦後には、地下鉄東山線開通に伴い、
錦通も完成。
道路はいつの時代も、名古屋のまちづくりの第一歩である。
新装なった名古屋駅(名古屋市中村区名駅四丁目~名駅一丁目・昭和12年)げんぞうアーカイブス所蔵
40代以上の人にとっては、懐かしい
名古屋駅の姿である。
当時
、東洋一と謳われた地上6階、地下1階の駅舎。
従来よりも200メートルほど北に移動して、昭和12年2月1日に使用を開始した。
明治19年の開業から数えて
3代目の駅舎である。
初代と二代目の駅舎は、ともに平屋建てで、ホームも地上にあった。
それが
鉄筋コンクリート造りの近代的な駅舎に生まれ変わり、
ホームはすべて2階になった。
これにより地上部分は、当時としては全国的にも珍しい、東西に移動が可能な
自由通路となり、
駅西の発展を生み出した。
さらに翌年には、
関西急行電鉄(現近鉄)が、地下に乗り入れたのに続き、
昭和16年には、
名鉄も西部線の終点を、押切駅から名古屋駅へと変更。
文字通り、ここが
名古屋の玄関口となった。
左手の
市電の向こう側に、駅に向かう人波に交ざって
荷馬車の列が見える。
名古屋駅と同時に開業した
笹島駅で受け取った荷物を運んでいるところか。
名物の
大時計は、午前9時26分を差している。
朝のラッシュが終わり、新しい一日が本格的に動き始めた時間帯の、名駅前の光景である。