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三河大島渡船場の賑わい

三河大島渡船場の賑わい(蒲郡市三谷町・昭和10年)げんぞうアーカイブス所蔵

三河大島渡船場

蒲郡市の沖合3キロに浮かぶ無人島三河大島
7月と8月には海水浴場が開かれ、いまも多くの人で賑わう。
写真は夕方近くの撮影だろうか。
島から帰る鈴なりの人びとを乗せた木造の渡船が、いままさに桟橋から離れたばかり。
それでもまだ多くの人が、桟橋の袂に取り残されている。
なかには係員に懸命にアピールしているような人もいるようだ。

三河大島は、昭和5年に当時の鉄道省海水浴場キャンプ場に指定してしたことから、その人気に火が付いた。
これを契機に本土側の三谷海岸も、多くの海水浴客で賑わうようになったという。

明治22年に東海道線が全線開通すると、東京から汽車に乗って旅する人が、
最初に車窓間近に海を体験できたのが、なんと蒲郡だったという。
明治33年に発表された「鉄道唱歌」にも、「東海道にて優れたる 海の眺めは蒲郡」という歌詞があり、
沿線随一の眺めだったことを裏付けている。

ちなみに木造の渡船には日除けのシートが掛けられているが、多くの人がそこには入れずに後部甲板に立っているようだ。
舵を握る船頭のそばまで、乗客が入り込んでいる。
文字通りすし詰め状態である。
桟橋の袂に日傘を差す和服姿の女性の姿も。
そばに幼子を連れているので、波打ち際で遊ぶわが子を、この姿で見守っていたのであろうか。
なんとも風流な光景である。









一ツ木駅にあった中国風楼門

一ツ木駅にあった中国風楼門(刈谷市一ツ木町・昭和初期)げんぞうアーカイブス所蔵

一ツ木駅の楼門

名鉄の前身・愛知電気鉄道一ツ木駅が開業した大正12年当時に建てられた中国風の楼門である。
三河三弘法2番札所の西福寺最寄りの一ツ木駅。
改札口を出た参拝者を迎えたのがこの楼門でであった。

元々、待合所として造られたというこの建物。
毎月旧暦21日の弘法大師の月命日には、吹き抜けになった1階部分に茶釜が置かれ、参拝者に湯茶の接待が行われた。
太い12本の柱の上には、中央の尖った屋根を取り囲むように、4つの楼台が設けられている。
建物は赤色や金色、銀色といった中国風の彩色が施されていて、乗降客のみならず、愛電利用者の目を引いたという。

この姿は太平洋戦争終結直後まで見ることができたが、そのころには屋根の傷みが激しくなり、間もなく改築されたという。
このとき、建物は1階部分のみ減築され、中央の開口部はそのままに、
四隅の柱の部分に壁を建てた宝形造の寺院風に、大きく変貌。
それは地元の人でさえ、建て替えたと勘違いするほどだった。
その際、ガラス戸をはめた休憩スペースも用意され、厳寒期の参拝客には重宝がられたようである。
お寺の本堂のような形の休憩所。
地元の古老によると、今世紀を迎える数年から十数年前に、老朽化が著しくなり、姿を消したという。

写真には、待合所の下を抜けて西福寺へと急ぐ和服姿の女性や、着物で山高帽を被りステッキを持つ紳士の姿も見える。
弘法大師の月命日に、一ツ木駅前が多くの人で賑わっていたことを記録する貴重な一枚である。
ちなみに、弘法大師ゆかり寺院には、遣唐使の一員として中国に渡った空海をイメージして、中国風の建物が少なくない。
愛電一ツ木駅の待合所として建てられたこの楼門も、そんな発想から計画されたものに違いあるまい。
だが、残念ながらその詳細は、今となっては定かではない。










羽田飛行場の旧景

羽田飛行場の旧景(大田区羽田空港2丁目・昭和13年)げんぞうアーカイブス所蔵

東京飛行場のユニバーサル機

これまで数回にわたって、名古屋港から水上機による民間航空路線を開拓した、安藤飛行機研究所をご紹介した。
昭和初期の日本の民間航空が、非常に小型の機体を使い、
現在よりもニッチな路線で展開されていたことがお分かりいただけたと思う。

一方、昭和13年当時、すでに国際線も運航されていた。
そこで今回は、当時の代表的な民間航空路線をご紹介しよう。
東京~大連間を結んだ日本航空輸送である。
まずは羽田を出発し、名古屋、大阪を経由して福岡まで飛ぶ。
さらにここから日本海を越えて、蔚山・京城(現ソウル)・平壌・新義州・大連まで結んでいた航空路線であった。
当初は羽田飛行場開港前で、立川飛行場を拠点していた。

写真は羽田飛行場で出発を待つ中島製のフォッカー・スーパーユニバーサル機(J-BAOC)である。
乗員2名・乗客6名で中島飛行機がライセンス生産した機体で、東京~大連間運行開始当初から活躍した機体。
その後、同じく中島飛行機がライセンス生産したDC-2(14席)や、それをベースに開発されたAT-2(8~10席)が登場するも、
スーパーユニバーサルは、扱いやすく、搭乗状況に合わせて運行されることが多かった。

ちなみに昭和13年当時、東京~大連間のうち東京~大阪間には週42便、大阪~福岡・福岡~大連間に、
それぞれ週28便も運航されていた。
写真は東京国際飛行場の駐機場で、出発を待つスーパーユニバーサル機の前に立つ乗客の男性。
当時の東京~名古屋間の航空運賃は17円
ちなみにコーヒー1杯が15銭、天丼が40銭という時代であった。










安藤飛行機研究所と一三式練習機

安藤飛行機研究所と一三式練習機(知多市新舞子・昭和13年)げんぞうアーカイブス所蔵

安藤飛行機研究所

新舞子海岸を低空飛行で飛ぶ一三式練習機(J-BIJL)である。
機体の背後屋根に「シンマイコ」と書かれた建物が、安藤飛行機研究所の格納庫。
右手前には、三朝館という料理旅館の離れが点在しているのが見える。
ここを利用する客は、新舞子海岸の景色を楽しむとともに、離着水を繰り返す水上機を眺め、非日常を満喫したという。

一三式練習機は、横須賀海軍工廠によって設計・試作が行われ、大正14年に正式採用された。
こうしたフロート付の水上機型と車輪を備えた陸上機型があり、
横廠のほか中島飛行機渡邉鉄工所(のちの九州飛行機)で100機ほどが生産された。
写真のJ-BIJL機は、中島飛行機製。

一三式練習機は、安藤飛行機研究所で操縦士養成に使われた主力機で、ここで技能を習得した者は、
航空会社や新聞社の航空部など、民間航空の世界へと巣立って行った。
ところが、戦時色が強まると、多くの若者たちが徴兵され、二度と戻ってこなかった者も多かった。

一方で、終戦まで生き延びた若者のなかには、戦後の民間航空再開で、再び大空へと戻った者もあった。
こうした卒業生のなかには、所長だった安藤孝三を、自分のフライトに招待して喜ばせたこともあったという。
中部国際空港「セントレア」の北に位置する新舞子海岸。
この地が中部地方の民間航空発祥地であったことは、のちにセントレアが建設されたことからも、
安藤孝三の先進性を証明している。









安藤孝三と練習生たち

強調文安藤孝三と練習生たち(知多市新舞子・昭和14年)げんぞうアーカイブス所蔵

安藤孝三と仲間たち

大正13年、新舞子で操縦士や機関士の養成と、軍払下げの機体の改造工事を始めた安藤飛行機研究所
その所長を務めたのが安藤孝三である。
安藤は民間航空路の開設や遊覧飛行にも力を入れ、全国各地で体験会などを開いて民間航空の普及に邁進した。

写真は安藤飛行機研究所の中島飛行機製「一三式練習機」の前で、練習生や教官らと記念撮影に写る安藤孝三である。
安藤といえば、白いあご髭がトレードマークといわれがち。
だが、それは晩年の姿で、撮影当時は、衆議院議員も務めており、精悍な姿に柔和な表情が、国会議員の貫録を感じさせる。
前列右から2人目が安藤孝三。

当時、安藤飛行機研究所では、航空局の委託で海軍の練習生過程を済ませた水上機操縦士たちが、
定期航空路線のパイロットをめざして、飛行訓練を続けていた。
そして、ここでの訓練を終えると、大日本航空輸送のパイロットになった。

ところが戦局が拡大すると、海軍は搭乗員不足を補うため、まずはこうした練習生から優先的に徴兵した。
日本の空に、民間航空を花開かせようと、始めた安藤飛行機研究所。
瞳を輝かせて大空に夢を抱いた若者たちが、戦地へと赴くことに、安藤自身、晩年複雑な気持ちだったと語っている。
ここに写る若者のなかにも、戦地で命を落とした者もいるに違いない。
その冥福を祈るとともに、平和の意味について考えたい。









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